Concert Etude op.2

制服系ちゅーば吹きbeardのブログ

良いと上手い

この前、テレビのとある番組で、小学校教師が美術の課題の採点に悩むシーンがあったのですが。

芸術の良し悪しとはなんなのでしょう?


それとは別に、上手い下手という表現もあります。
良し悪しとの違いは何なのでしょう。

そこらへんについて考えてみました。


まず、定義の簡単な方から行きましょう。
上手い下手のほうです。

いかなる芸術も、上手い下手という判断は、確実に存在します。

美術なら、デッサンが整っているか、バースは狂っていないか、陰影は立体的かetc...
音楽なら、リズムは正しいか、音程は正しいか、バランスは整っているかetc....

要するに、技術的に優れているかどうかということですね。

これは、暗に「規範」の存在を意味します。
つまり、暗黙のうちにある「かくあるべし」に近いかどうかということが判断規準となる。

さきほど、「美術なら」「音楽なら」となんの断りもなく書きましたし、大半の方がその表現に疑問を覚えずに読んだと思います。

ですが、これがもし、美術は美術でも日本画だったら?音楽でも、アフリカの生活に根ざした民俗音楽だったら?

先ほどの上手い下手の規準など、何一つ意味を成さないことは、お分かりだと思います。
それらのジャンルにおける上手い下手には、また別の規範が存在し、それに基づく判断基準が存在するのです。

まとめますと、あらゆるジャンルにおいて、暗黙の規範が存在し、その規範に即していればいるほど上手い、逆に離れれば下手ということになります。


では、良し悪しとは?

単純に上手ければいいのでしょうか?
理論武装して、破綻なくまとめられており、それでいて進歩的であればいいのでしょうか?
それともより多くの人間を感動させられればいいのでしょうか?

これは、実は物凄く難しい問題です。

「下手だけど、素晴らしい」芸術というのは現実に存在し得るし、逆もまた真なり。
これは、各々の主観によってあまりに受容の仕方が違いすぎることによっておこります。

ある人にとって素晴らしいものがある人にとっては非常にくだらないものである可能性を孕んでいるということです。

ここで、ひとつはっきりしたことがあります。

「上手い下手に比べて、良し悪しの判断規準は各個人の感受性によって差異があまりに大きい」ということです。

ようやく僕の今回書きたかったテーマにたどり着きました。


「良いか悪いかは自分で決めなければならない」

ということなのです。
そして、芸術に携わる以上、良いと信じるものを提供すべく努力しなくてはならないと思います。

上手いだけじゃダメなんです。
良い演奏をしなくては。

だから難しく、だから面白い。


…などと、ちょっと考えたことを書きなぐってみました。