Concert Etude op.2

制服系ちゅーば吹きbeardのブログ

おたく

電車男以来、秋葉原文化とでも呼ぶべきものが社会に急速に知られつつあります。
この文化に浸っている人を、「オタク」と呼び、社会は好奇と蔑みの目を向けてもいます。


おたく、という言葉の語源はもともと、コレクター同士が「おたく、これ持ってる?」と自分のコレクションを披露しあったことだそうですが、数年前までのその言葉は現在の「アキバ系」という意味とは違い、もう少し広範な意味を持っていた様に思います。
それはつまり、ある特定の趣味をとことん追求する人、の意であり、クラシックおたく、文学おたく、絵画おたく、発明おたく…
そういった細かなカテゴライズを内包しており、しかも、その「おたく」と呼ばれることはある種の称号、というか、「世間的には不必要だが物凄い知識を持った人」という意味があったと思っています。

例えばベートーベンおたくだとすると、作品番号の付いた曲を全て聞いており、かつ交響曲はもちろん、協奏曲、弦楽四重奏曲ピアノソナタなど主要な作品のスコアを全て収集し、自筆譜も集め、楽章ごとに主題を全て歌うことが出来る、くらいの、「バカだ…凄いけどバカだ…」という圧倒的な知識が必要だったと思います。


ところが、現在では「アニメや漫画やゲームを偏愛していて」「妄想癖があって」「ファッションがダサくて」「挙動不審なことをする」人を「オタク」と呼ぶようになってしまいました。
もっと言えば、「2ちゃんねらー」=「オタク」とさえ思われています。

そうすると、さも自分はあるジャンルに詳しいフリをする「知ったかぶりオタク」が増殖します。本当はそんなに知識量はないのにオタクと呼ばれていると詳しい気になるんでしょうか。また、ネット上ではたまたま知っていたことをさも常識かのように書き込めば詳しい人と思わせることが出来ます。


僕個人としては、非常に嫌な風潮です。


本当にその道に詳しい人は自分を詳しいと思っていない、という格言がありますが、おたく本来の「好奇心を追求する」「自分が知らないことがまだある。ならそれを知りたい」という、ある種非常にポジティブで能動的な行動原理が、ただ「変な趣味を持っている」に変わることは、日本全体のマイナスです。
言ってみればノーベル賞なんて取るような方々は大概その道のおたくです。追求する姿勢が、社会に認められたわけです。

ですから、おたくは有る意味財産でもあるわけです。知的財産ですね。
それが非能動的な「オタク」に取って代わられた時、本物の知識を持った人はいなくなった、ということでもあると思います。


自分がオタクだと思うひと。どうせ好きなことしか出来ないなら、オタクを辞めておたくになりなさい。
自分の好きなものを数十年追い続ければ、その道であなたと対等に語り合える人はもはや誰もいないでしょう。
それは、間違いなく立派なことじゃないですか。

こんなこと考えてる10代って僕ぐらいのもんだろうな(笑)